第2章 これからは、薫おばさんに食べさせてもらいなさい
翌朝。佑奈は早く起きた。――いや、実際には一睡もしていない。
六年暮らしたこの家から持ち出すのは、最低限の着替えだけ。
高価な宝飾やバッグは「有川の奥様」の持ち物であって、私のものではない。必要ない。
スーツケースを引いて階段を下りると、リビングからすでに物音がした。
有川菜央が絨毯に腹ばいになり、ハサミを握って何かを「チョキ、チョキ」と切っている。紙屑がぱらぱらと散っていた。
佑奈は足を止める。
切られているものが見えた。
結婚記念日のために、一か月かけて何度も描き直し、有川紘樹に贈ろうとしていたカフスボタンのデザイン画。
復帰の足がかりにするつもりだった、ボツ案の一枚。ボツだろうと、血の滲む心血には違いない。
それがいま、娘の手で、ただの屑になっていく。
胸の奥の空洞が、また痛みに変わって広がった。
声を出そうとした、そのとき。階段から足音が落ちてきた。
有川紘樹が片手でカフスボタンを留めながら、冷えた顔で下りてくる。
状況を見た瞬間、男の顔色がすっと沈む。
大股で近づき、菜央の手からハサミをひったくった。
そして、幽い寒気を宿す視線が、怒りを隠しもせず佑奈へ突き刺さる。
「佑奈、死人か?」
「菜央はまだ五歳だぞ。こんな危ないもので遊ばせて。指を切ったらどうする」
冷たく鋭い声。嫌悪まで滲んでいた。
床の紙屑が何かなど、彼は一度も見ない。佑奈の描いたものなど、彼にとっては紙屑以下。娘の指一本にすら及ばないのだ。
佑奈は静かに見返した。
十年愛して、それでも一度もまともに自分を見なかった男を。
以前なら慌てて言い訳しただろう。
「気づかなかった」「取りに行くところだった」――
けれど今は、何も言いたくなかった。
黙ったままの佑奈に、有川紘樹の苛立ちは増す。
「どうした、しゃべれないのか?」
その腕の中から、有川菜央が怯えたように顔を出したかと思うと、すぐにぺっと舌を出して佑奈に鬼の顔。
「ダメママ! わたし切るもん! 薫おばさんが言ってた! ママの絵、ぶっさいくでパパにぜんぜん合わないって!」
「薫おばさんのが芸術だもん!」
子どもの無邪気な一言ほど、心に深く突き刺さるものはない。
佑奈は、七分自分に似たその顔を見つめた。胸の奥に残っていた最後の糸が、ぷつりと切れる音がした。
命がけで産んだ娘。
すべてを投げ打って、五年かけて育てた娘。
この子の中で、実の母は佐伯薫の髪の毛一本にも敵わない。
佑奈はふっと笑った。薄い笑みなのに、どこか冷たかった。
「そんなに薫おばさんが好きなら……」
声は軽い。感情の起伏もない。
「これからは、あの人にご飯を食べさせてもらいなさい。寝かしつけも、絵本も、全部」
菜央が目を丸くする。
怒鳴られると思っていたのだろう。だが次の瞬間、勝った気になってぱんぱんと手を叩いた。
「やったー! 薫おばさんがママ! あんたなんかいらない、悪い女!」
有川紘樹は眉を寄せ、佑奈の脇のスーツケースへ冷ややかな目を落とした。
「佑奈、今度は何の芝居だ」
「昨日は離婚、今日は荷物まとめて実家か? 駆け引きが俺に効くと思ってるのか」
佑奈は取っ手を握り締める。
「有川紘樹。離婚協議書、署名して」
それだけ言い、父娘を一瞥もしないまま玄関へ向かった。
未練は一欠片もない。
背後から、有川紘樹の嘲笑が飛ぶ。
「出ていったら戻るなよ。三日もしないうちに泣きついてくる」
「パパ、行かせて!」菜央も叫ぶ。
「帰ってくるな! 薫おばさんがいればいい!」
佑奈の背が一瞬だけ強張った。だがそれだけ。扉の向こうへ消える。
終わった。
十年の片想いも、結末のない結婚も――ようやく終わった。
三十分後。控えめな黒い車が、市内でもっとも華やかな一等地に停車した。
ランティンビル。世界トップクラスのジュエリーブランド「ランティン」本社。
ドアが開き、佑奈がハイヒールで地面を踏む。
長年かけていた黒縁眼鏡を外すと、清冽で艶やかな顔が現れた。仕立てのいいスーツが、華奢な体を端正に引き締める。纏う空気が一変した。有川家で小さく息を潜めていた影は、もうどこにもない。
ロビーには社員が二列に並び、待ち構えていた。
佑奈が姿を見せた瞬間、全員が一斉に頭を下げる。
「社長!」
佑奈は小さく頷き、淡々と言った。
「今期の新作レポートを私のオフィスへ」
「かしこまりました!」
誰も想像しなかった。
噂では引退したはずのトップジュエリーデザイナー「ユナ」が、こんなにも若く、美しく、そして冷たいほどの存在感を持っているなんて。
専用エレベーターで最上階へ。
オフィスのドアを開けると、そこは彼女が去った日のまま保たれていた。
床まで届く窓の前に立ち、街の流れを見下ろす。
かつて有川紘樹のために、翼を折り、狭い家という檻に自分を閉じ込めた。
その代償は、屈辱と裏切りだけ。
――だから、戻ってきた。
水野家の令嬢、佑奈として。
そして、デザインマスター「ユナ」として。
そのとき、内線が鳴った。
受話器を取ると、フロントの若い女性の声が弾んでいる。
「社長! 有川グループの社長がいらっしゃっています!」
「店で一番のデザインを、想い人に贈りたいそうで……できれば社長にもお会いしたい、と」
佑奈は眉を上げ、答えずに考え込む。
有川紘樹が、想い人に? 自分に会いたい?
――当然だ。佐伯薫は彼女の作風を盗み、似せて描いてきた。似て非なるものでも、外側だけは紛らわしい。
有川紘樹は想い人を持ち上げるため、本人に教えを乞うか、あるいは提携を持ちかけに来たのだろう。
ただし。
彼は知らない。彼が会いたいデザイナーが、昨日自分が追い出した元妻だということを。
佑奈は口元だけで、意味深く弧を描いた。瞳に笑みはない。
「丁重におもてなしして」
